4人や5人、あるいは10人、またはそれ以上と、複数の人数で演ずることの多い「演劇」。
私も、二人芝居をつくったことがあるものの、一人だけで演じる舞台をつくったことは長年ありませんでした。
ちょうど3年前です、一人芝居と出合ったのは。
初めて生で一人芝居を観たとき、「ふむ、一人芝居というのも面白そうだな」、というのが感想でした。
その時はまだ大きな衝撃はありませんでした。
その年、ひょんなことがきっかけで私が一人芝居を演出することになりました。
コメディをつくりたい、という話だったので、コメディ好きの私としては願ったりかなったり、と、楽しんで演出しました。
『一人芝居は、当然、役者一人で演ずる・・・
ということは・・・舞台上に一人しかいない・・・が、一人の世界をしっかりと広がりある形で見せる、またはまわりの環境や風景、まわりにいる人や目の前の相手などを一人でしっかりと見せるべき・・・それがきっと面白いはず、凄味を感じられるはず・・・
そこで、一人で世界のすべてをつくりあげるからといって、説明的になってしまっては台無しになる・・・』
そんなことが頭に浮かびました。
そこで、
『あ!一人芝居というのはもしかして、一人だからこそとても大きい世界を描けるんじゃないのか!?相手役がいないから逆に自由に演じられるんじゃないのか!?そんなことを一人でやってしまうから面白いんじゃないのか!?』
そう氣づいたのです。
以来、一人芝居の「一人」という部分は、基本的にひらがなで表記し、 「ひとり芝居」と書くようになりました。
漢字の「一人」よりひらがなの「ひとり」の方が、視覚的効果として「広がり」を感じられる氣がするのです。
三年で随分ひとり芝居をつくりました。
つくればつくるほど、「一人でこんなにダイナミックな世界を生み出せるひとり芝居は、本当に面白い!」と実感します。
事実、観客の視線は一人の役者に集まり、観客とつながりをもてて一体となったとき、世界は一氣に広がっていくのです。その中で生き生きと演じ、ありありと表現できたとき、計り知れない調和(ハーモニー)が生まれます。演じる者も、観ている者も、「ハモっている」ような、「共鳴している」ような感動、感激、快感を覚えます。
そんなひとり芝居を、これからもどんどんつくり、広めて、一人でも多くの方々に楽しんでいただきたいと思うのです。
アトリエ・フォレストでは、このような素敵なひとり芝居のライブを定期的に開催しております。観にきていただいたお客様に投票していただき賞を決めるひとり芝居コンテストもございます。
詳細はアトリエ・フォレスト公式サイトにて。
私も、二人芝居をつくったことがあるものの、一人だけで演じる舞台をつくったことは長年ありませんでした。
ちょうど3年前です、一人芝居と出合ったのは。
初めて生で一人芝居を観たとき、「ふむ、一人芝居というのも面白そうだな」、というのが感想でした。
その時はまだ大きな衝撃はありませんでした。
その年、ひょんなことがきっかけで私が一人芝居を演出することになりました。
コメディをつくりたい、という話だったので、コメディ好きの私としては願ったりかなったり、と、楽しんで演出しました。
『一人芝居は、当然、役者一人で演ずる・・・
ということは・・・舞台上に一人しかいない・・・が、一人の世界をしっかりと広がりある形で見せる、またはまわりの環境や風景、まわりにいる人や目の前の相手などを一人でしっかりと見せるべき・・・それがきっと面白いはず、凄味を感じられるはず・・・
そこで、一人で世界のすべてをつくりあげるからといって、説明的になってしまっては台無しになる・・・』
そんなことが頭に浮かびました。
そこで、
『あ!一人芝居というのはもしかして、一人だからこそとても大きい世界を描けるんじゃないのか!?相手役がいないから逆に自由に演じられるんじゃないのか!?そんなことを一人でやってしまうから面白いんじゃないのか!?』
そう氣づいたのです。
以来、一人芝居の「一人」という部分は、基本的にひらがなで表記し、 「ひとり芝居」と書くようになりました。
漢字の「一人」よりひらがなの「ひとり」の方が、視覚的効果として「広がり」を感じられる氣がするのです。
三年で随分ひとり芝居をつくりました。
つくればつくるほど、「一人でこんなにダイナミックな世界を生み出せるひとり芝居は、本当に面白い!」と実感します。
事実、観客の視線は一人の役者に集まり、観客とつながりをもてて一体となったとき、世界は一氣に広がっていくのです。その中で生き生きと演じ、ありありと表現できたとき、計り知れない調和(ハーモニー)が生まれます。演じる者も、観ている者も、「ハモっている」ような、「共鳴している」ような感動、感激、快感を覚えます。
そんなひとり芝居を、これからもどんどんつくり、広めて、一人でも多くの方々に楽しんでいただきたいと思うのです。
アトリエ・フォレストでは、このような素敵なひとり芝居のライブを定期的に開催しております。観にきていただいたお客様に投票していただき賞を決めるひとり芝居コンテストもございます。
詳細はアトリエ・フォレスト公式サイトにて。
役者は、心と身体を使って役を表現します。
その表現のバランスをとり、よりよいものに高めるのが演出や型です。
演劇においては演出家が、映画においては監督がその表現をとりまとめます。
まず、役者が演じ表現する「役」についてまとめてみましょう。
役には、「人物(キャラクター)」と「役割」という二つの重要な要素があります。
「人物(キャラクター)」とは、その物語・劇の中の登場人物そのものを、物語・劇の中で息づく人間を指します。
物語・劇の中の存在である人物に生命を吹き込み、生き生きとした人間としてありありと表現するのが役者です。
「役割」とは、物語・劇をより効果的に表すために登場人物に割り当てられた、その人物ならではの役目を指します。
これは物語・劇のテーマと密接な関係にあり、ストーリーの中で人物の「目的・欲望・欲求」として現れます。
逆に言えば、その人物の目的・欲望・欲求を通して、物語やテーマを表すための役割を果たしていきます。
作家によって、人物(キャラクター)の設定は
物語やテーマを効果的に表し、役割を効果的に果たすことができるものに練り上げられています。
この「人物(キャラクター)」と「役割」をしっかりと把握し、調和させて、役者の心と身体を通し生きた存在として表現すること、それが役者の大切な仕事です。
作品全体や演技、さまざまな効果などについて、客観的視点を保ちながらよりよい表現を生み出しとりまとめること、
それが演出家や監督の大切な仕事です。
次に、「型」についてまとめていきます。
「型」とは、その名の如く決められた形を指すわけですが、
「型の演劇」といわれる日本の伝統演劇・芸能である歌舞伎を例に見ていきましょう。
歌舞伎はその発祥から既に400年が経過し、現在でも人氣を博している素晴らしい演劇です。その初めのころには演出家がいたそうですが、いつしかその存在がなくなり、「型」というものが伝承されていくようになりました。
江戸時代と明治以降での型の変化や、上方歌舞伎と江戸歌舞伎の型の違いなど、歴史や地域によっての変化・違いはありますが、
400年もの間、先人達が創意工夫し培って蓄積し、洗練し続けてきたのが「型」です。
それはいまなお、磨かれ進化し続けています。
作品全体や舞台全体の動き、位置などを形作る「演出上の型」
役者個々の動き、立ち居振舞い、ことばなどを形作る「演技上の型」
という2つの型があります。
しかし、歌舞伎役者はただ形だけを演じているのか、中身はないのかというと、全くもってそうではありません。
むしろ、中身がしっかりとしており、そこに洗練されつづけた型が融合するため、ものすごい迫力・情感・雰囲氣・美しさ・格好良さがあります。
NYブロードウェイで舞台を観たときにはそのすごさに驚かされましたが、歌舞伎を初めて観たときの驚愕は、それを凌ぐものがありました。
400年の型の洗練・蓄積と、俳優たちの能力の高さ、ことば、踊り、舞台装置・衣装・生の音楽などが「和」の中で見事に調和し、
そして伝統演劇といえども決して古くない、反対にとても新鮮な斬新な舞台がいつもそこにあります。
舞台上で歌って舞う演技、「歌舞伎」
これは世界に通用する、誇れるものです。
実際、今年 十八代目中村勘三郎に襲名した元 中村勘九郎さんが去年の夏、平成中村座という一座でNYマンハッタンのど真ん中に特設の芝居小屋を組んで歌舞伎を上演し、目の肥えたニューヨーカーたちが大絶賛し大盛況だった、という報道が記憶に新しいところですね。
同じ日本の伝統芸能で型があるものとして、能や狂言、日本舞踊などがあります。
日本の俳優で素敵な演技をする方々はよく、日本舞踊を習っていたりします。
また、茶道なども様式美・形式美のあるものとして学んでいたりするものです。
日本には、「型」の芸の歴史があるのです。
日本の、日本人の良さを最大限に引き出す世界に誇れる「型」です。
しかし、型を取り入れるときには危険が伴います。
型を演じるだけでその氣になってしまうからです。
中身が伴わない限り、それは紋切り型のつまらない演技になってしまいます。
また、中身だけ備わっても、それが表に出てこないと伝わりません。
中身と外側の融合・調和をこころがけ、片方に偏ることのないようにしたいものです。
アトリエ・フォレストで開講している演技レッスン「アクターズ・フォレスト」では、役の根幹をとらえ、自分と役とを融合させてそこから表現が生まれてくるようになるメニューを組んでおります。役をとらえた上での表現が生まれるため、その役ならではの、そして、その役者ならではの形が誕生します。
ご興味のある方はお氣軽にご参加ください。無料体験もございます。詳細はアトリエ・フォレスト公式サイトにて。
その表現のバランスをとり、よりよいものに高めるのが演出や型です。
演劇においては演出家が、映画においては監督がその表現をとりまとめます。
まず、役者が演じ表現する「役」についてまとめてみましょう。
役には、「人物(キャラクター)」と「役割」という二つの重要な要素があります。
「人物(キャラクター)」とは、その物語・劇の中の登場人物そのものを、物語・劇の中で息づく人間を指します。
物語・劇の中の存在である人物に生命を吹き込み、生き生きとした人間としてありありと表現するのが役者です。
「役割」とは、物語・劇をより効果的に表すために登場人物に割り当てられた、その人物ならではの役目を指します。
これは物語・劇のテーマと密接な関係にあり、ストーリーの中で人物の「目的・欲望・欲求」として現れます。
逆に言えば、その人物の目的・欲望・欲求を通して、物語やテーマを表すための役割を果たしていきます。
作家によって、人物(キャラクター)の設定は
物語やテーマを効果的に表し、役割を効果的に果たすことができるものに練り上げられています。
この「人物(キャラクター)」と「役割」をしっかりと把握し、調和させて、役者の心と身体を通し生きた存在として表現すること、それが役者の大切な仕事です。
作品全体や演技、さまざまな効果などについて、客観的視点を保ちながらよりよい表現を生み出しとりまとめること、
それが演出家や監督の大切な仕事です。
次に、「型」についてまとめていきます。
「型」とは、その名の如く決められた形を指すわけですが、
「型の演劇」といわれる日本の伝統演劇・芸能である歌舞伎を例に見ていきましょう。
歌舞伎はその発祥から既に400年が経過し、現在でも人氣を博している素晴らしい演劇です。その初めのころには演出家がいたそうですが、いつしかその存在がなくなり、「型」というものが伝承されていくようになりました。
江戸時代と明治以降での型の変化や、上方歌舞伎と江戸歌舞伎の型の違いなど、歴史や地域によっての変化・違いはありますが、
400年もの間、先人達が創意工夫し培って蓄積し、洗練し続けてきたのが「型」です。
それはいまなお、磨かれ進化し続けています。
作品全体や舞台全体の動き、位置などを形作る「演出上の型」
役者個々の動き、立ち居振舞い、ことばなどを形作る「演技上の型」
という2つの型があります。
しかし、歌舞伎役者はただ形だけを演じているのか、中身はないのかというと、全くもってそうではありません。
むしろ、中身がしっかりとしており、そこに洗練されつづけた型が融合するため、ものすごい迫力・情感・雰囲氣・美しさ・格好良さがあります。
NYブロードウェイで舞台を観たときにはそのすごさに驚かされましたが、歌舞伎を初めて観たときの驚愕は、それを凌ぐものがありました。
400年の型の洗練・蓄積と、俳優たちの能力の高さ、ことば、踊り、舞台装置・衣装・生の音楽などが「和」の中で見事に調和し、
そして伝統演劇といえども決して古くない、反対にとても新鮮な斬新な舞台がいつもそこにあります。
舞台上で歌って舞う演技、「歌舞伎」
これは世界に通用する、誇れるものです。
実際、今年 十八代目中村勘三郎に襲名した元 中村勘九郎さんが去年の夏、平成中村座という一座でNYマンハッタンのど真ん中に特設の芝居小屋を組んで歌舞伎を上演し、目の肥えたニューヨーカーたちが大絶賛し大盛況だった、という報道が記憶に新しいところですね。
同じ日本の伝統芸能で型があるものとして、能や狂言、日本舞踊などがあります。
日本の俳優で素敵な演技をする方々はよく、日本舞踊を習っていたりします。
また、茶道なども様式美・形式美のあるものとして学んでいたりするものです。
日本には、「型」の芸の歴史があるのです。
日本の、日本人の良さを最大限に引き出す世界に誇れる「型」です。
しかし、型を取り入れるときには危険が伴います。
型を演じるだけでその氣になってしまうからです。
中身が伴わない限り、それは紋切り型のつまらない演技になってしまいます。
また、中身だけ備わっても、それが表に出てこないと伝わりません。
中身と外側の融合・調和をこころがけ、片方に偏ることのないようにしたいものです。
アトリエ・フォレストで開講している演技レッスン「アクターズ・フォレスト」では、役の根幹をとらえ、自分と役とを融合させてそこから表現が生まれてくるようになるメニューを組んでおります。役をとらえた上での表現が生まれるため、その役ならではの、そして、その役者ならではの形が誕生します。
ご興味のある方はお氣軽にご参加ください。無料体験もございます。詳細はアトリエ・フォレスト公式サイトにて。



